書店員まっさんの読書備忘録📚✍

まっさんの読書備忘録📚✍へようこそ。こちらでは主に読んだ本の感想をシェアしていきます!特に頻度は決めておらず、緩く投稿していくので、よろしくお願いします👍✨

負けても生き抜いた武将「宇喜多秀家」について知りたい方におすすめ!

みなさん、今期放送中のドラマ何を視てますか??

 

 

 

僕は『タリオ復讐代行の2人』と『ルパンの娘』、『この恋あたためますか』の3作品視ています。

 

 

 

 

その中でも特に、火曜ドラマの

『この恋あたためますか』にハマってます!

 

 

 

僕は、どちらかといえば恋愛ものはあまり好きでは無いのですが、このドラマがなかなか面白くて!

 

 

 

特に、中村倫也さん演じる、クールだけどヒロインに優しい社長浅羽拓実が好きで視てます!

 

 

 

でも、仲野大賀さん演じるヒロインに片想い?してる新谷誠も好きです!

 

 

 

ただの恋愛ものじゃなくて、企業ものとしても面白いですよ!(・∀・)b

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回紹介する本はこちら!

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大西泰正著『宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性』(平凡社)

 

 

 

 

 

 

宇喜多秀家は戦国〜安土桃山時代の武将で、豊臣秀吉に仕え、後に五大老(秀吉の息子秀頼が幼少の間、政務を支える5人の補佐役)にも数えられる超エリート武将でしたが、

 

 

 

関ヶ原の戦いに敗れ、最期は八丈島に配流となり、そこで生涯を終えた悲運の武将。

 

 

 

そんな、彼の栄光と転落を少しでも知りたいと思い、購入してみました!

 

 

 

 

 

今回は、自分の中で問いを立ててみることに。

 

 

 

 

 

  • 「なぜ、関ヶ原の戦いに敗れた後、処刑を免れることができたのか?」

 

 

 

 

以下、本を読んで得たことを要約してみました!

(※あくまで個人的な捉え方なので、ご了承ください🙇‍♂️)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • なぜ、秀吉が認めたのか?

 

 

 

戦国時代が好きな方なら既にご存知かもしれませんが、

 

 

 

宇喜多秀家は、備前(現在の岡山県)の武将宇喜多直家の息子です。

 

 

 

直家が当主だった頃、中国の毛利輝元畿内織田信長が激しく対立し、周辺の豪族たちもそれぞれ毛利と織田に別れて戦っていました。

 

 

 

宇喜多家は当初毛利方でしたが、最終的に織田方に付き、備前で毛利家に抵抗していました。

 

 

 

そこで、宇喜多家の窮地を救ったのが、信長により中国方面司令官に抜擢された羽柴秀吉

 

 

 

宇喜多家は存亡の危機を秀吉により救われたわけですが、秀吉にとっても、宇喜多家が毛利に対して独力で戦い抜いたことは、ありがたかったようで、

 

 

 

秀吉と宇喜多が、それぞれお互いの窮地を救ったのでは無いか?

 

 

そしてそれ以降、秀吉は秀家を重用し、秀家には特に大きな戦功が無いものの、

 

 

 

秀吉の弟秀長や、養子の秀勝、秀保が亡くなったあと、五大老の1人に抜擢したのでは無いか?

 

 

 

というのが、大西氏の見解でした。

 

 

 

 

また、秀家の「武将としての器量」も関係していたようで、

 

 

 

秀家自身は、決して目立った手柄は無いが、特に大きな失策も無い、無難な将帥であったのではないか?

 

 

 

と、大西氏は評価しています。

 

 

 

紀州雑賀攻め以降各地を転戦する中で、抜かりなく戦いをこなしていく秀家の武将としての器量を、秀吉は買っていたのかもしれませんね〜

(朝鮮侵略の際には、秀吉の渡航が中止となったことにより、事実上、現地で戦う日本軍の総大将的立ち位置になったようです!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関ヶ原の戦いでは、西軍に就いた秀家。

 

 

 

ご存知の通り、関ヶ原の戦い徳川家康率いる東軍の勝利に終わり、

 

 

 

同じ五大老であった上杉家、毛利家は減封、

 

 

 

石田三成小西行長安国寺恵瓊らの首謀者は、罪人として処刑という、家康は厳しい処断を下しました。

 

 

 

にもかかわらず、西軍に就き主力として戦った秀家は、処刑を免れ流罪で済んでいます。

 

 

 

 

それは何故なのか??

 

 

 

 

大西氏曰く、その1つの理由に、加賀前田家の支援があったからでは?とのこと。

 

 

 

前田家は、前田利家が秀家と同じ五大老の1人であり、秀家の正室樹正院(豪姫)の実家でもありました。

 

 

 

その、利家の妻である芳春院(まつ)が、関ヶ原の戦いの後、秀家の関ヶ原から上方への逃亡を裏で支援していたのでは無いか?と、大西氏は考えます。

(なぜ上方かというと、関ヶ原の戦いで家康が勝利したとはいえ、上方にはまだ豊臣秀頼が健在で、京都大坂周辺は政治的特殊地帯であったようです)

 

 

 

 

 

あと、上方に脱した秀家が、島津氏を頼り薩摩へ逃亡したことも、助命に繋がったと大西氏は言います。

 

 

 

島津氏は、関ヶ原の戦いでは西軍に就き、島津義弘や甥の島津豊久らが本線に参戦していました。

 

 

 

西軍敗北と見るやいなや、なんと、敵である東軍の中央を突っ切って薩摩へ帰還した島津軍(世にいう島津の中央突破ですな!)

 

 

 

 

後に、島津氏は徳川家と和睦し、恭順の意を示しますが、

 

 

 

秀家が逃走してる頃、まだ島津と徳川家は敵対同士。

 

 

 

他の大名が家康に恭順の意を示す中、薩摩だけはいわゆる武装中立地帯の状態。

 

 

 

 

秀家は、そんな島津氏を頼り薩摩へ落ち延びます。

 

 

 

 

中世近世の日本では、揉め事などで追われる身となった者が、第三者の屋敷などに逃げ込むことがあり、頼まれたら断れなかったようです。

 

 

 

 

島津氏も、別に秀家を匿う理由も必要も無いのですが、

一度頼まれたからには、島津の面目の為にも、なんとか秀家助命に持っていきたい!と思ったのか、家康に秀家の助命嘆願をします。

 

 

 

島津氏の奔走の甲斐があってか、秀家は死罪だけは免れ、八丈島島流しとなり、結局その地で没します。

 

 

 

 

大名としての宇喜多家は滅亡しますが、前田家の逃亡援助や、島津氏の奔走が功を奏し、秀家は生き残ることができました。

 

 

 

そしてその裏には、秀家の勝算と努力があったのでは無いか?と大西氏は考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とても長くなってしまいましたが、小さな勢力の息子として生まれながらも、秀吉の養子となり、五大老にまで上り詰めるというエリート路線を歩みながらも、関ヶ原での敗北により転落した秀家の、その波乱万丈な人生も、なかなか興味深いと感じました(^^)

 

 

 

あと、ここではあえて書きませんでしたが、宇喜多家が没落する原因の1つとなった宇喜多騒動に関する、大西氏の見解も読みどころなので、

 

 

 

気になった方はぜひ、本書を読んでください(・∀・)b

 

 

 

 

最後までご覧頂きありがとうございました〜

 

 

 

ではまた( ´ ▽ ` )

 

 

 

ーENDー